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Terakoya
寺子屋プロジェクト
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グローバルの視点からの考察

産業革命以来、長く我々を支配してきたパラダイム、機械論的世界観に今ようやく我々は終止符を打とうとしている。危機的な状況を呈する地球の様相を真の当たりにし、こうした状況に陥れたのはほかならぬ我々人類自身なのだと誰もが気付いている。
化石燃料に依存した産業形態に支えられ、我々人類は驚異的な速度でテクノロジーを発達させてきた。百年前には予想もできなかったSF的世界を現実のものへと変えてきた。たったの一日で地球を一周する事ができる世界、あるいは、いながらにして地球そのものでさえ映像で見ることができる世界、さらに自らのクローンを生み出すことすら可能となった世界、、、、。

あくなき経済成長の探求は、物質的な豊かさを人間にもたらした。そうした便利で、豊かな世界に住みながら、本当の豊かさとか何か?と、自らに問うとき、そうしたものが、決して精神的な豊かさには繋がらないということに我々は気付いている。しかも、そうした恩恵に預かっているのは地球上のごく一部の人間であることを忘れてはならない。さらにその一部の人間によって今日の地球の危機的な状況は作られたのだということも。荒れ果てた森林、魚の住まなくなった湖、砂漠へと変貌したかつては緑に覆われた土地、地球は人類の発展成長という大義名分のもと搾取され続けたのだ。何十億年の歴史を紡いできた地球の生命そのものの存続すら危ぶむほどの危機的状況を数百年に満たない短期間で作り出してしまった我々は、自らの愚行を反省し、根本的な変革をすべきときがきている。

世界の行政機関はじめ、営利の追求を第一としてきた企業も環境破壊の責任の一旦は自身にもあると認めている。近年CRS(企業の社会的責任)を多くの企業が唱えるようになってきたのもその現れといえる。そしてまた営利を目的とせず、社会的貢献を目的とするNPO(非営利団体)も世界中で多く結成され、それぞれの目的のもとに活動を推進している。近年はその三者が連携して、社会の変革に向けて取り組みを見せるようにもなってきている。お互いの特性を生かし、各々が持たない部分を補いあうことにより、より多く社会に貢献することができるためである。

そうした社会全般の動きは地球環境を健全なものにし、人も含め地球上の生物達が安全に生きていける状況に少しでも近付くための努力として大いに評価されるべきだろう。しかしながらこうした良い徴候もあるとはいえ、まだまだ十分と云うにはほど遠く、課題は山積みというのが現状である。

日本もそうした時代の流れの中で、自らの進む道を模索し続けているわけだが、資源を持たず食料自給津も低く、経済大国と呼ばれた時代はとっくに過去の栄光となっている今、未来予想図は厳しいものにならざるを得ない。

高齢化とともに少子化も進む中、増え続ける退職者世代をどのように国は支えていくのか。少子化により不動産はおのずと余ってくることになろう。すでに高度成長時代に節操なくたてられた建物は老朽化し、醜態をさらしている。江戸や明治、大正期にたてられた堂々としたすばらしい建築物もどんどん姿を消していっている。新たに建てられた建造物も30年40年後には粗大ゴミとなる運命、自然環境を大切にすることとともに我々はもっと、身近な世界、毎日を送る自分のまちに目を向けるべきではないだろうか?

自然を大切にしたり、お年寄りを敬ったりする感情は毎日の生活から芽生えるものではないのだろうか?身近なところをおろそかにして世界の環境保護を唱えたとしてもそれは実質を伴わない、表面的なことに終わってしまうのではないか?感性とは、毎日自らの目に触れるところから磨かれるものなのだ。我々日本人は、騒音の中に暮らし、新建材で建てられた安普請の建物に囲まれ、けばけばしいネオンサインが横行する通りを歩いていてもそのことに対して何も感じない国民になりさがってはいないだろうか?繊細で美しい感性をもっているはずの日本人は今、どこにいってしまったのだろう。

今こそ感性の回復を目指すときではなかろうか。すべては我々の脳が生み出した産物、30年、40年しか保たず自然に回帰することもできない新建材で家を建てる愚行を止め、100年200年経っても堅固な、あるいは年を経る毎に趣を増す、そんな建物を未来に残すべきではないだろうか?「もったいない」とどんなものも粗末にせず、大事に使っていた日本人の心を今一度想い起こそう。さもなければ、日本全国がスラム化することも免れないのではないだろうか。すでにその徴候はある。空き家や、空き倉庫、また閉鎖せれた小学校など放置された建物が日本全国に多く見受けられる。それが江戸や明治期に建てられたものであるならなんとか残す努力をすべきだと思う。ある程度予算がかかろうと、一度壊してしまえば、二度とは手に入らない貴重なものと認識し、個人の問題と放置せず、その町の問題として取り組むことが大切ではないだろうか。まちは今生きる我々が死んで後も子孫に伝え残していくべきものなのだから。

京都をはじめ日本全国ですでに少しずつではあるが、そうした動きは見られる。かつての機能とは違った新たな存在として空き家は再生されている。レストランやブティック、ギャラリーといった商業施設に移行したり、アートセンターやアーティストのアトリエ、工房といった使い方もされている。その他町ぐるみで定期的に芸術祭を開催することにより、アーティスト達に空き空間が提供され、アーティストインレジデンス(AIR)として機能することもある。フランスなどでは古く17世紀から存在したAIRであるが、ようやく日本にもその萌芽が見られるのは喜ばしい事だと思う。

機械論的世界観に支配された20世紀、なにもかも科学と云う名の下に証明できると思った人類の驕りは、過去のものになろうとしている。代って、繊細で、ものごとに感動する心こそが、今まさに望まれ、その感性こそが、明るい未来を描く礎になると誰もが気付きはじめている。

まずは身近なところから始めようと思う。自分の家から、そして自分のまちから。個人個人の意識の変容がやがては日本全国を美しい調和のとれたまちへと変えていくに違いない。

中田 洋子

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